2014年3月23日日曜日

子育て・自分自身のこと

そこはどうなんだろう?

私の母も難しいひとで、過干渉で、私はあまり愛されていた実感がないです。
もうケンカはしないけど、仲がいいわけではない。
私の両親は離婚していて、私は当初、母から引き離されていました。
やがて母方にうつりましたが、当然、悶着はあった。
かなり高葛藤な離婚と言えます。

私が母方を選んだ(家庭裁判所で証言をしました。6歳だったと思われる。)のは
養父が大好きだったからかもしれない。
やるなあ父さん。数回あっただけの男の子をたらしこめるなんて。
私にできるだろうか? むしろ、泣かれちゃうかもしれないぞ。

父方の祖母は厳しいひとだったけど私には優しく、私もなついていました。
友達もたくさんいた。
引っ越してそれらの人々に会えないのは悲しかった。
けど私は新天地を選択した。
理由がいまいち思い出せない。いくつかあるんだろうけど。

実父の母も、たくさんいたおばさんも、私の前では実母の悪口は
ぜったいに言わなかった。これは、たいしたもんだ。
たぶん、祖母が偉かったんだろうと思う。
実父はすごくおっかない人で、私(4歳くらい)にキレて、
食事中の食卓から風呂場まで抱えていって、
そのまま風呂のなかに放り込んだことがあります。

この記憶、どこかで自分でつくったのだろうか?
ちょっとユニークすぎる折檻の方法だよなあ。
実母からも、熱いアイロンを腕に押し付けられて折檻された記憶があるんだけど、
これも虚偽記憶だろうか?

どっちも、もう確かめようがないけど。
母は、それはお前が自分でイタズラしたのだと言ってた。と思う。
腕の内側にあったやけどのあとも、もう見えない(大学生のころまでは残ってた)。

なんか被虐待児みたいだ。まあ、どっちも一回きり。

実父にはその後、何度か会えました。
良い記憶も悪い記憶も、まあ、たいしてなかった。
実父は会社人間だった。
いっぺん、会社につれてってもらったことがある。
海にいったのも、なんとなく覚えている。
それらは、きわめてスペシャルな出来事だった。
だから、あんまり一緒にいた記憶がなかった。
私も忙しかったし、
会うのが億劫だったし、会ったことがバレると母がうるさかったので、
大人になってからも、あんまし会わなかった。
でも、会えばフレンドリーに話ができた。
父の行きつけのスナックに行ったりもした。
私の子供のときの写真を、ずっと持ち歩いていた。
もっと会いにいけばよかった、悪いことしたかな、とも思う。
残念ながら、私の長女が生まれる直前に、亡くなりました。

私は結局、実母とも実父とも連合を組まなかった。
仲良くしていたのは祖母と養父でしたが、彼らはだれも非難しなかった。
有難いなあ、私、かなりハイリスクだったはずです。

もっとも、やっぱ何かはあって、だから「また引き離されている」50%の1人、
なのかもしれません。自分のことも疑ってかかったほうがいいかもしれん。
妻がここまでおかしくなっていても放っておいたのはおかしいと同僚には言われた。
そうかもしれない。
でも、どうできたのか、今でもわからない。

身内が狂うと、どんだけたいへんか、
どれだけしんどいか、どれだけうんざりするか、
これは、経験者でないと分からないのではないかなと。
説明できそうな感じがしない。

いつも、地雷がどこにあるのか、気にしながら生活する。
自分だけならまだしも、人質をとられる。
思い出すだに、おぞましいです。
子供を連れていくとは思わなかった。それはヤラレタ、だけど、
正直、出て行ってくれてほっとしている自分も、1割くらい、います。
それじゃ子供がまずいじゃん、で慌てている自分が9割くらい。

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